田園調布雙葉学園カトリックセンター「愛の泉」
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ガリラヤ修道院のシスター方 インタビュー 第3回

シスター方のインタビューを紹介いたします。


インタビュー 第3回 「修道生活で大切になさっていること」

シスター方の修道生活とは、どの様な生活をなさっていらっしゃるのか、中々普段、私達は知る機会がありませんけれど、今回はガリラヤ修道院のシスター方に修道生活のご様子と、その中で大切にしていらっしゃる事をお話し頂きました。
ある共同体の一日
5:00~6:30この間に各自起床、個人で朝の祈り・黙想
6:30ミサ / 朝食、TVニュース
 各自の使徒職へ
 (聖書や宗教のクラス、訪問、院内の仕事、滞日外国人支援活動など)
12:00昼食(院内、職場、外食などそれぞれの場で)
 各自の使徒職
18:00晩の祈り / 夕食(時間に修道院にいるメンバーで)
共同体の集会(週一回)、TV、入浴、黙想(昼間出来なかった人)、
各自の部屋で仕事など
就寝(時間はそれぞれ)

シスター 篠崎

毎朝のミサの祈りから力を頂いて神様と共に生活をしています。朝は5時に起床をし、6時半からのミサの準備をします。現在ミサの係をしていますので、7時からの朝食の後はミサの道具の洗濯やアイロンをかける仕事をしています。その後は、買い出しやクリニックに行ったり、普通の方と同じ様な用事をします。テレビのニュースを見たり、新聞を読む事で社会の状況を把握します。又、使徒職としては、保護者の方々への「教え」のクラスをしていますので、その為の準備をします。 修道生活で大切にしている事は,神様の事を伝える事を第一にする事。そして自分自身が常に喜んで生きること。出会った方々の悩みや苦しみに寄り添い、喜びを共にして、神様に生かして頂いていると言う恵みを常に見つめて生きる事です。学校に奉職していた時、生徒達が1年生の時に、幼きイエス会の創立者ニコラ・バレ神父様の教えの一部をいつも机に入れて心の支えにしていました。

「バレ神父様のみ教え」

一瞬一瞬が天の恵みです。 一瞬一瞬が人生です。
大事なのは人生を年月で満たすのではなく、年月を生き生きと過ごすことです。
今、この時が愛の呼びかけです。今、この時が挑戦です。
今、この時は新しく今までと違ったものです。
価値を見出しなさい。その時々の驚きを見つけなさい。
今、この時には重荷があります。引き受けなさい。そんなに重くないし,恵があることがわかるでしょう。
今、この時は恵みです。今、この時神がおられるのです。
神を見つけて礼拝し、神から愛されていることを知り神を愛しなさい。
自分は神の恵みにふさわしいかどうかを判断せず
ただ、神の御前に自分を差し出していれば十分です。

あれから長い長い年月が過ぎましたが、今でもこのみ教えを心に留めて支えにしています。神様から頂いた恵みを感じ、神様から頂いている一日一日、一瞬一瞬を大切に。神様に生かされている喜びと感謝を忘れずに生きて行きたいです。
年老いていく私自身を見つめながらこの修道生活を最後まで全うしたいと思っています

シスター 高岡

毎朝6時半に、御ミサの中で御聖体拝領をしますが,イエス様を心の中にに頂くこの時間が,私にとっては一番大切な時間です。順調な一日もあれば失敗を繰り返してしまう一日もありますけれど、どんな時も祈りの内に、イエス様と対話をしながらイエス様を信頼し、イエス様と共に生きることを大切にしています。又、今、大事にしていることは、世界中で起きている様々な問題、ウクライナの問題やソマリアの飢餓、エチオピアの大洪水など。それによって苦しんでいらっしゃる沢山の方々を思い起こして祈ることです。直接関わることができなくても、祈りを通して繋がっていき、連帯をしながらお支えしていきたいと勤めています。 又私達の修道生活は共同生活ですけれど、其々に個性もあるし、彩りも違います。そういう中で相互に助け合い、足りないところは補い合いますが、イエス様が仰った様に、人に仕えていく生き方を大切にしたいと思っています。人間関係は日によって違いますし、人生は転んでは起きるの連続ですが、気負うことなく、さり気なく努力していけたらと思っています。イエス様は自分から出て行って人に仕えなさいと仰っていますが、それは人を受け入れるということでもあります。そのために大切な事は自我を捨てること。その生き方の基本を絶えず学んで行けたらと思っています。誰もがお互いに仕え合うという事をしていれば、人は繋がっていけるのではないでしょうか。その為には先ずは、自分達から実践していかなければなりませんね。シスター一人一人の使徒職はみな違いますけれど、食事の時や話し合いの時は其々自分を出して率直に話し合い、そこで一つになって分かり合います。昔は食事の時は沈黙でしたけれど、時代が変わり、今は食事の時間も相互理解の大切なコミュニケーションの時間です。夕方は5時45分から夕の祈りを合同でしますが、全て一斉に時間でする事が決められていた昔と違い、今は其々の使徒職の個性が尊重され、一日の時間の配分を個人の責任において委ねられているので、今の在り方は社会に順応した良き変化だと思います。第二バチカン公会議の時に教皇様が「教会の窓を開いて社会の外に出て行きましょう」と呼びかけられました。それによって修道生活も社会に向かって広く開かれたことは時の要請だったのでしょう。これからは信徒の方々の自立が益々求められると思いますけれど、祈りとは、まず神様との内的な出会いがあって、人格的な関わりを持つことである事を心に留めて、神様との信頼関係をお一人お一人が其々に築いて行かれる事を大切にして頂けたら嬉しく思います。

シスター 谷元

昔と今では修道院の生活の様式も大分変わりました。今も昔も変わらない事は、1時間の黙想が義務付けられていることです。ノビシア時代は(修練期)は厳しいものでした。その後、学校に奉職している時は朝は時間がないので、夜、1時間の黙想をしていました。現在は其々の使徒職の予定に合わせ、いつ、黙想の時間を取るかは個人の自由性が尊重されています。朝は5時に起床をし、6時半からのミサに与ります。コロナ禍の中、教会のミサも制限がある中,ガリラヤ修道院では近くの上野毛教会の神父様が来て下さるので,毎朝ミサに与る事ができます。これは大きな恵みであり、大変有難く感謝をしております。又,朝と夜の2回、世界中の修道者が勤める「教会の祈り」(聖務日課)の祈りをします。かつてはラテン語でしたが、後に日本語に訳されました。当時はそれを手刷りで印刷をしなくてはならず、大変な労力と時間がかかりましたが、今ではそれも良い思い出です。又、修道者の特徴である修道服は,昔は全て手縫いで、手造りでした。寝巻きや下着も自分達で作っていました。第二バチカン公会議の時に、「源泉に戻る」方向性が示され,幼きイエス会では、貧しい状況に置かれた方々を中心に地域に入って活動する人は私服を着用し、学校現場ではどちらかを個人の判断で選択することとなりました。又、修道生活で大切にしている事は、祈りと共同生活です。其々に足りない所は補い合い、又協力して行く事も大切です。共に会の歴史を学び合い、今年は特にマザー・マチルドへの理解を深めています。又フランシスコ教皇の回勅「ラウダート・シ」(共に暮らす家(地球)を大切に)を通して環境問題についても学び、実際の生活の中で様々な資源を大切に節約するよう努めています。私にとって一番の救いは「御聖体」です。修道生活の一日をミサで始めることはとても大切なことであり、「祈り」を中心に1日のリズムを作り、全てを聖霊に委ねて生きること。試練や苦難があっても修道生活を通して頂いた恵みや喜びは他では味わうことのできないものであったと思います。この道を選んだことに悔いはなく、幸せでありました。カトリックの家庭に生まれた事,又その環境を与えてくれた両親と神様に、深く感謝をしています。

シスター 奥井

一日の内で一番大切にしているのは朝の御ミサです。御ミサを通してその日を奉献して(神様に捧げる)一日を始める事。この事が何よりも重要な事であると考えています。ガリラヤ修道院ではコロナ禍にも拘わらず近くの上野毛教会から神父様がいらして下さり、毎日御ミサに与る事ができます。この事はこの時にあって、大いなる神様からの恵みであると大きな喜びの内に深く感謝をしています。又私が大切にしている事として、御ミサに与る時には、聖書の中のルカによる福音書1章38節「わたしは主のはしためです。お言葉どおりにこの身に成りますように。」と言うマリア様の言葉を心に留めて与る事です。神様へのマリア様の全き従順な応答であるこの御言葉を心に留めて与る事で自らの修道生活を全面的に神様に委ねています。
又、御ミサの後は7時からの朝食の後、ゴミ出しなどの日常の仕事をして、その後、8時から使徒職に向かいます。現在7つの「教え」のグループを持っているので、その内容の準備が主な仕事になります。「教え」では最初の30分は私の方から用意をした聖書の話をし、その後一人一人が意見を述べて、皆で分かち合いをしながら共に学び合います。私が特にお伝えしたい事は、ルカによる福音書1章46節のマリアの賛歌の箇所です。

マリアの賛歌

そこでマリアは言った
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊くその憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕はイスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

ここには道徳的革命、社会的革命、経済的革命、と言われるキリスト教的な社会観が描かれていて、私達が生きていく上でとても大切なことを教えてくれています。神様は人の世の価値観とは対極に傲慢な者は徹底的に打ち砕き、謙遜な者に恵みを与えられます。権力のある者はどうしてもその場にのさばろうと固執し、周りの人達を見下す傾向がありますけれど、その地位も神様から与えられたものと言う視点で考えれば、自分の分にふさわしく謙遜な精神を持って生きていくことができるのではないかと思います。
又、この御言葉の伝える富と貧しさについても分かち合います。所有することよりも与えていくことに喜びと価値を見出して行くこと。知恵ですら神様から頂いたものと捉えるならば、しっかりと頂いたものに磨きをかけて、社会全体の益のためにそれを差し出していくことが大切なのではないかと思います。又、マリア様とヨセフ様が平凡な日常生活を通してイエス様をお育てになられたこと。聖書にはイエス様が霊肉共に成長したと書かれていますけれど、それは私達と何も変わることのない、何気ない平凡な生活の営みの中で育まれたもの。如何に普通の生活が大切であるかを私達に伝えてくれているのではないかと思います。

又、バレ神父様は最も大切な事は聖霊への全き委託であると仰っていますが、学校で奉職していた時、特に校長職の多忙な時期には、充分に思うように授業の準備ができないで事もあり、玄関のマリア様に良き授業ができる事を祈り願い、度々助けて頂きました。職員室から教室に向かう廊下でも、絶えず祈りながら聖霊に委ねて歩き、その恩恵を度々体験致しました。信仰による祈りの力とはそういったものです。

又、生徒達に必ず伝えてきた御言葉は、テサロニケの信徒への手紙5章12節の「結びの言葉」です。

兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。兄弟たち、あなたかたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

歳を重ねて今、心に特に響くのは、マタイによる福音書28章16節の「弟子たちを派遣する」の場面です。

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登った。そしてイエスに会い、ひれ伏した。しかし疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

現在の修道生活の使徒職として一番重要な働きは、「教え」による宣教ですが,この御言葉に今も励まされ、使命の道を生きる喜びと共に大きな力を頂いています。

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