田園調布雙葉学園カトリックセンター「愛の泉」
田園調布雙葉学園カトリックセンター「愛の泉」

学園に所縁のあるシスター方 シスター木村 インタビュー


私は田園調布雙葉中高等学校の卒業回数で言えば修了2回生にあたる。終戦後疎開先から帰京し、小学校5年の時四谷の雙葉に編入した。当時、毎週自由参加のミサがあり参加している内に友人達(信者)の白いベール姿に憧れ、同時にウエハースのような白いもの(ご聖体)に好奇心が湧き自分もそれを頂きたいと思った。振り返ってみると此のことが「教会の勉強会」に参加するきっかけであったように思う。
その後シスター・ジョン中村(小学校)シスター・ミッシェル高木(中高校)の温かいお導きを受け、中1のクリスマスに受洗の恵みに浴した。高1の時に初めて黙想会に参加し、友人に誘われ面接に同伴した。友人の神父様への質問は「どうしたらシスターになれますか?」応答「望みが途切れず、ずうっと続けば~」と。今にして思えば、この事は召命のきっかけになっていたように思われる。高校卒業後聖心女子大学では国語国文学科で学んだ。勉学もさることながら良い友人にも恵まれた。と同時に学長マザーBrittの教育方針は今だに私の人生の中心軸になっている。
敗戦後、日本女性が将来広く世界に向けて第一歩を踏み出す為の基本的なあらゆる面を教えられ、学んだように思う。勉学もさることながら自分の時間を又事柄を、他の人の為、他の事柄の為に差し出すこと "意義"を、又その実践が学内のあらゆる行事に組み入れられていた。しかも特に自主性が重んじられていた。
大学卒業後社会人としてのスタートは田園調布雙葉中高等学校国語科の教員としてであり、2年半お世話になった。その間生徒指導、保護者との関係等新任教員としての難しさ、困難はあったが先生方の寛大さに助けられ新任として仲間意識が深められお陰で楽しい教員生活を送ることが出来た。

1960年9月8日、サンモール会(幼きイエス会)の志願者となり2年間の修練期(田園調布の修練院)実習期10か月を横浜雙葉、サンモールインターナショナルスクールにて過ごし、1963年,初誓願宣立、1968年 終生誓願を立てる恵みを頂いた。この期間 移動もなく横浜の共同体のメンバーとして 20数年間担任教諭、主事、校長をしながら多くの生徒に接することが出来た。又、修道院内で働く宣教女としてのイタリアのスール方の生き方には多くのことを学んだように思う。言葉も解らず、又、学ぶ機会も与えられなかった当時の日本の状況にあって只ひたすら日本の子供たちの為に彼女達は全生涯を捧げて下さったのだ。メール・マチルドの生涯と同じように。
1977年フィリピン、マニラのアテネオ大学内にある「東アジア司牧研究所」(East Asian Pastoral Institute)で司牧、典礼、聖書、文化の福音化(Inculturation)などを一般男女、司牧、司祭、奉献者、カテキスタ神学生等20数か国からの参加者と起居を共にしながらの共同体生活、又、Pastoral Exposureなどの体験は人生を見つめ直す貴重な体験であった。これは9月から6ヶ月月間翌年3月迄のコースであった。その後帰国することなく直接アジアのシンガポール、マレーシア、タイ管区に滞在、その後9月から始まる聖書講座(イスラエル ガリラヤ地方のチベリア湖畔にあるマーテルエクレシアセンター)に参加するようにとの管区長からの知らせを受けた。ここでの共同体メンバーはアフリカ、殊に東のケニア、モザンビーク、スワヒーランド、そしてガーナ、ナイジェリアから、印度、韓国、香港、スリランカ、シンガポール日本からのシスター達で、生活の在り様はE.A.P.Ⅰ.の後とは言え結構文化の違いは大きかった。帰国したのは1979年 3月であり、4月から横浜雙葉中高校長としての勤務が待っていた。
校長職としての奉仕は4~5年だったろうか?修道会には6年毎に総会が開催され、其の当時、管区長だったシスター杉田が総顧問に選出された為、木村が管区長の任務を継いだ。当初の管区の問題は定年退職後のシスターの使途職の場の問題であった。学校以外の場で働いたことのなかった私達は何処で何をしたらよいのかわからなかった。塾の開発、雙葉会の拡張、その他小教区への開拓等々、修道会としての組織をもってのミッションとして働くことができなかった。しかし振り返ってみる時この時この事はかえって良かったのかもしれない。

管区使途職の社会分析を専門家に依頼し学校を始め、全使途職について今後を分析した。このプロセスを経て現在の各校が存在していると思う。各校の校長職をシスターから一般教員へと移行準備(養成)が始ったのもこの時点からであった。

管区長の任期終了後私は沖縄に派遣された。沖縄では1983年、定年退職後のシスター2名がパイオニアとして、その後数名の共同体で沖縄での試みが始まっていた。南国沖縄での生活は、私にとってフィリピンの生活を思い出すよすがとなり、個人木村美彌子として生きる自由さを満喫した場でもあった。小教区、教区、学校と言う枠を超えた、JICAでの日本語講師、琉球大学での職(上智大学修士課程時での仲間からの依頼)は初めての事であり若者との接触は新鮮であった。小教区という場を借りて「キリスト教講座」(グリフィン師考案)を真栄原と普天間で20年位だったか、行った。男女成人延ベ人数は200人程(?)だったか定かではないが喜ばれていたようだった。但し地元の人々との触れ合いには限界があった。あくまでも私は「大和んちゅ」(東京の人)だったのだ。
20数年間の沖縄滞在から2014年古巣、横浜に戻った。山手教会の信徒希望者に「聖書、祈り、生活の分かち合い」を3年間、その後は横浜共同体閉鎖に伴い東京四谷の二コラ・バレ修道院に移動となった。
2017年以降は毎月一度、東京在住の卒業生に、第二土曜日の午後山手のグループの継続、不定期に沖縄のグループとの{分かち合い}を続けている。コロナ禍中の沖縄に関しては彼女ら自身の自主性に任せている。
私自身、この年齢までいろいろな面で失敗もし、様々な迷惑をかけながらも健康を頂き、よき友、理解ある姉妹たち、周囲の多くの人々の寛大さに支えられ恵まれて過ごした日々であった。
改めて過ぎた日々を振り返るとどんな時にも神様のはからいの内にいた事に気づく。


    ~神のはからいは限りなく生涯私はその中に生きる~

残る人生貧しくとも、この神様の愛に応えて行く日々になるように努めていきたいと願っている。

木村美彌子



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