田園調布雙葉学園カトリックセンター「愛の泉」
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ガリラヤ修道院のシスター方 インタビュー 第2回

シスター方のインタビューを紹介いたします。


インタビュー 第2回 「み言葉によるシスターからのメッセージ」

シスター 篠崎

好きな御言葉
 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです
 - コリント第二4章16節から18節

このみ言葉を想い巡らす時、1年生が宗教の授業で出会う、レーナ・マリアさんの事が思い浮かびます。 生まれながらに両腕と左脚に原因不明の障害を持って生まれた彼女は「私の両親は私を障害者としては育てずに、一人の娘として育ててくれました。そして「あなたは価値ある者です。私達はあなたをとても愛している。」と度々語ってくれました。けれどもそれ以上に影響があったのは、神様がどれほど私を愛して下さっているのか、又、私には神様の特別なご計画がおありになるからこそ他の人とは違う形に造られたという事を絶えず伝えてくれた事です。そのお陰で人と違うことに対して誇りを覚えることができました。そして神様がどんな時でも私と一緒にいて下さり私のベストフレンドでいて下さる事が分かり常に喜んで生きる事ができるようになりました。」と明るい笑顔で語っています。両腕損傷、左脚は右脚の半分の長さという大きなハンディキャップを持ちながらも水泳ではパラリンピックで入賞するほどとなり現在はゴスペルシンガーとして世界的に活躍している彼女のこの強さはご両親の熱き信仰による愛の教育の賜物であると感銘を覚えます。更に彼女は「一番危険なのは自分を憐れむ気持ちに陥る事だと思います。」と述べていますが、彼女の生き方とその精神の中にこのみ言葉の力が満ちているように思います。

シスター 高岡

シスターの好きなみ言葉
 イエスはまことのぶどうの木...
 - ヨハネによる福音書15章:1-17

イエスは私達が理解しやすいように例えをもって真理を話して下さいます。今日はヨハネの福音書の15章に記されている例えをお話ししたいと思います。
イエスは、わたしはぶどうの木です。とおっしゃいます。わたしにつながっていなさい。わたしも、あなた方につながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方も、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実をむすぶとおっしゃいます。私達はイエスの木にしっかりとつながりたいと思います。イエスは、わたしは、道、真理、命であるとおっしゃいました。(ヨハネ14)お互いにイエスの御言葉に耳を傾けて、分かち合いながらイエスの道を、命を歩んでいけたら良いと思います。そして、更にイエスは、おっしゃいます。これらのことを話したのは、私の喜びが満たされるためである。わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。と。(ヨハネ15)
お互いに愛し合う喜びの実を豊かに結ぶことができますように、共に歩んで参りましょう。

シスター 谷元

シスターの好きなみ言葉
 真理はあなた方を自由にします
 - ヨハネによる福音書8章32節

このみ言葉は私が道に迷い、どちらを選べば良いのかわからなくなった時に出会ったみ言葉です。心の迷い、動揺が無い、何者にも動かされないものが欲しい。人の言葉や人の目が気になっていた時でしたから自分の行動に自信が持てなくて、方位磁石が北を指し示してくれるように、正しい方向を指し示してくれるもの。そんな時に出会ったみ言葉が、「真理があなたを自由にする」でした。
では、真理とは一体何でしょうか?「真理とは何か?」そんな問いを実際にイエスにした人が聖書の中に出てきます。それはイエスを最終的に十字架につけることを了承したローマの総督ポンテオ・ピラトでした。彼自身は、自分には責任はないと言い聞かせていましたが、彼はユダヤ人に言わば脅迫されて承諾してしまったのです。そんなピラトの「真理とは何か?」と言う問いに対してイエスは答えなかったのです。何故でしょう?答えのヒントがそれまでイエスが真理について語ってきた言葉の中にあります。すべての問いは、聖書の中に答えが見つかります。イエスが語った言葉や行動の中に見つかるのです。ヨハネによる福音書14章6節「私は道であり、真理であり、いのちである。」ヨハネによる福音書18章の37節~38節「私は真理を証するために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、私の声に聴き従います。」
生きていく中で、迷うこと、思い煩う事が度々起こる事でしょう。又答えが見い出せずに苦悩する事も。そんな時はどうぞ聖書の中に答えを探して下さい。イエス・キリストに直接聴いてください。「求めなさいそうすれば与えられる。」と言うみ言葉の如く、求めた者には必ずやみ言葉による答えが与えられる事でしょう。

シスター 奥井

シスターの好きなみ言葉
 私は主のはしためです。お言葉どおりにこの身になりますように。
 - ルカによる福音書1章26節

現代のコロナ禍やロシアとウクライナの戦争に想いを馳せる時、人間的な権威の持つ力に恐れを覚えずにはいられません。今、私達が本当に平和を望むのであるとするならば一人一人が真に謙虚になることが求められているのではないかと思います。その様な中、思い浮かぶのは聖書の中に出てくる有名な聖母マリアの「受胎告知」。そしてナザレと言う小さき村の事です。ナザレとはイエスキリストの出生地ですが、この村は100家族程度が住むに過ぎない、ごくごく小さな村でした。旧約聖書の中ではその名は全く言及されていません。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言う新約聖書のヨハネによる福音書の言葉はその当時のナザレに対する人々の認識を表しています。後に救い主として人類に多大な影響を与えて行く彼が、この人知れず素朴な小さき村でその生涯の30年をひっそりと過ごされた、その事の意義についても想い巡らす必要があるのではないかと思います。イエスは30歳になるとこのナザレを後にして3年間の宣教活動を始め、日常生活の出来事や実例を用いながら天の父である神様の愛と人間の使命について説いて行きます。それは紛れもなくこのナザレと言う名も無き村で静かに育まれていったものでした。母であるマリアの受胎告知も同じこの村で起きた出来事です。神に遣わされた大天使によってある日突然神の子イエスを宿す事を告げられたマリアの驚き、恐れ、不安は如何ばかりかであった事でしょう。処女で神の子を宿すと言う人間的な観点では到底理解出来ない事を恐れと不安と葛藤しながらも最終的にはその運命を受け入れて行くマリア。その時の返答の言葉が「私は主のはしためです。お言葉どおりにこの身になりますように」と言うものでした。自分の想いは置いて、黙って神の計画に応える道を選択して行くマリアの姿に真に謙遜な在り方が表れているのではないかと思います。処女懐妊を含め聖書に出てくる不思議な出来事は全て聖霊の働きによるものである。と聖書に書かれていますが、幼きイエス会の創設者の二コラ・バレ神父様もこの「聖霊」への全き委託が何よりも大切であると述べておられます。一般的にはとらえる事が難しいこの「聖霊」への理解を皆様と一緒に深めて行くことができれば混迷する世界の中で未来に希望を持って生きていかれるのではないかと思います。

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